未必の故意って知っていますか?

未必の故意って知っていますか?
例えば、極寒の中、人がのったら割れることが明らかな程度の厚さの氷が張っている池がありました。見た目にはのっても大丈夫そうです。
その氷の上にある心臓が弱い人がのろうとしていた。
それを見ていたあなたは氷が割れてその人は間違いなく池の中に落ちると思った。
そして落ちたら心臓マヒで死ぬと予想した。
でも、あなたは注意しなかった。
そして、その人は池に落ちて心臓マヒで死んだ。
法律上は、あなたの行為(不作為)は未必の故意として殺人罪に問われることとなる。
国家権力が国民に旅行させたくなかった。
国民に旅行するなと言えば簡単だが、それでは、憲法違反を問われることは明確だ。
だから、旅行すると感染が拡大する。感染が拡大したら医療崩壊して多くの人が死ぬと国民に印象操作を行なった。
だから、旅行するしないはあなたの意志ですが、死にたくなければ旅行しない方がいいですよと注意喚起した。
更に、コロナに罹って死ななくても他人にうつしてその人が死んだらどう責任を取るのですかと、国民の道徳心に訴えて旅行しづらくした。
つまり、国民を社会心理学的手法で旅行出来ないように洗脳した。
国民の多くが旅行しなくなると旅館ホテルが収入がなくなって赤字になることは当然分かっている。
国家権力が旅行するなとは言わないけど、感染が拡大して医療崩壊すると多くの国民が死んでしまうので旅行しないで欲しいですと国民に訴えた。
旅行するなと言っていないから、憲法違反にならない。
だから、国家賠償責任も負わないでいい。
多くの国民が旅行しないと旅館ホテルが死ぬことが分かっている。
でも風で帽子は飛んで氷の上に落ちた。
国家権力は帽子を拾うことを命じていない。義務化にもしていない。
でも、帽子を拾うことは社会を疫病で多くの人が死なないようにするためには大切なことですとプロパガンダをしたことは事実。
これは未必の故意ではないでしょうか。
この政府のやり方は、未必の故意の憲法違反ではないでしょうか?
最近流行の報道しない権利も未必の故意として違法性や違憲性を問うことが出来るのではないでしょうか。
不作為は作為です。
未必の故意は不作為のひとつです。注意しないのは不作為という作為です。
池に突き落としたら故意(作為)です。
氷の上に帽子が落ちていた。それを取ろうとして氷の上にのって氷が割れて水没して死んだ。
その帽子が氷の上に何故落ちていたかで、その人が死んだことに関して法律的な解釈が変わる。
帽子をあなたがわざと落として拾ってと頼んだら完全に殺人てしかも立証が可能。
帽子をわざと落として拾うことを期待して、氷の上にのったら割れることを注意しないつもりだったら完全に殺人だけど立証が難しい。
拾おうとするところを見ていなかった。気付かなかったと言えばいいから。
風で飛んで氷の上に落ちた。拾ってと頼んだら殺人。
黙っていても、拾おうとするのを見ていたら、気付いていたら、未必の故意となり殺人。
でも、見ていなかったと言われれば、立証が難しい。
疫病は風邪が吹いて氷の上に帽子が落ちたごとく天災。
旅行に行くなと命じていないから、帽子を拾ってと頼んでもいないから、作為的な憲法違反ではない?
国家権力によるプロパガンダで誘導された国民運動的な旅行の自粛で旅館ホテルが死んだ。
政府(国家権力)は旅行を国民が旅行しないように仕向けると旅行ホテルが死ぬことは分かっていたのですから、未必の故意による殺人と思う。
帽子を拾ってと言っていないけど、拾わない人は社会的責任感がないダメ人間のレッテル貼りの国民運動を始めたのは政府です。

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