最近の言論空間で私が一番気になることは自説と異なる意見を持っている人間に対して言説で相手を論破して自分の正当性を示そうとするのではなく、レッテルを貼ってその人の印象を操作して、それによってその人の人格を貶むことを狙う輩が多い。
特にネット空間には多くの人が情報発信をしている現代社会ではそういうやり方でnoisy majorityの支持が得やすい環境が出来上がっている。
もともと世の中に存在する論戦は何者かによって中立的に主催されたディベートでない限り客観的な判定がなされらる訳ではない。
例えば、マスメディアに露出が多い評論家の類との論戦は全て審判も含めてawayでやるボクシングみたいなものなのでKOしない限りは勝ちはない。
マスメディア御用達の専門家、評論家や勘違いしたキャスターや官僚OBの大学教授等とのSNS空間での論戦は大衆が権威によって洗脳されているという観点でバイアスがかかった世論が形成されている状態ての論戦を覚悟しないといけない。
それはawayの試合で、しかも良くてdrawしかないゲームみたいなものである。
相手の応援をする観客からのbooingのように次から次に参戦してくる輩からの誹謗中傷もこちらとしては覚悟する必要がある。
全員を黙らせて相手をやっつけるためにはKOしかないが言論空間ではKOは不可能だろう。
現実に相手をKOするためには言論空間ではなく裁判所で戦うことになる。
但し、日本の司法は、アメリカほど歪んではいないが、結構まともではない。中立的かつ客観的な判定を下す孤高な哲学的審判(裁判官)が殆どいないと思うべきだ。
何故なら所詮彼らもサラリーマンだからだ。
だから、それはそれで公正無垢な判定が存在しない前提での八百長試合みたいなもので勝ちにいくことを意味する。
だから日本では裁判は簡単に起こせない。
弁護士も殆どの人が先に勝ち負けを見積もって勝てそうなものした引き受けない。 日本でももっと気軽に裁判する風土が醸成されるべきだ。
そうすれば言論空間やネット空間での誹謗中傷もすぐに裁判沙汰になるので今みたいに安易な誹謗中傷が横行することはなくなるかもしれない。
マスメディアに露出が多い勘違いエリートも訴訟の対象になったら今みたいに減らず口も叩けないだろう。
最近の言論空間で私が一番気になることは自説と異なる意見を持っている人間に対して言説で相手を論破して自分の正当性を示そうとするのではなく、レッテルを貼ってその人の印象を操作して、それによってその人の人格を貶むことを狙う輩が多い。

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